メッセージ 小泉義之 教授・研究科長(2018~2019年度)

―学問のFacies Hippocratica―

小泉義之
 本研究科は2003年4月に発足して以来、数多くの院生を迎えてきました。これは本研究科の大きな特徴になっていますが、様々な場所から様々な人々を院生として迎えてきました。どんな指標をとるにしても、これほど多様な院生で構成されている研究科は他には見当たらないと思います。ダイバーシティが大学行政において唱えられる以前から、本研究科では、院生も教員もその厳しさと悦びを経験してきました。
 本研究科発足から15年が過ぎ、学術博士号を取得して巣立っていく院生は100名の大台を超えています。新卒で進学した院生でアカデミックポストに就く割合は、他大学・他研究科に比べ相当に高い水準に達しています。社会人院生は、すでに別の研究機関・公共体・企業に所属したり、各種の地域活動体・市民運動体を担ったりしながら学術博士号を取得して改めてそこでの活動の糧としています。専門職を有する院生は、広い視野から研究し実践する力能を高め、所属する専門分野でもキャリアアップしています。このように、本研究科は、大学の研究高度化を主導し、学界や社会に対しても大きく貢献してきたと言えます。

 本研究科の院生は、学術振興会特別研究員の採用数も多くなっています。また、多くの院生が、本学の様々な支援制度を活用して国際学会発表や海外調査を進めたり、国内外の学会誌に論文を掲載したり、学内外の助成制度を利用しながら博士論文を出版したりしています。こうした研究の方途を、本研究科は開設当初から切り開いてきました。
 ところが、いまでは、その方途は当たり前のこととなっています。分野によりけりですが、誰もが留学し、誰もが海外の学会で発表し英語論文を投稿し、多くの人が博士論文を単著として刊行するようになりました。これも分野によりけりですが、誰もが同じ方式で調査を行い、誰もが同じ分析方法を駆使し、誰もが似た考察を叙述し、誰もが多くの論文を生産するようになりました。社会人や専門職についても、院生として受け入れる大学院が増えてきましたし、誰もが似たような仕方で専門分野を人文科学的に料理するようになりました。要するに、大学院での研究は、完全に標準化したのです。ある種の啓蒙的理性が勝利したと言ってよいかもしれません。あるいは、ある種の歴史がここに来て終焉したと言ってよいかもしれません。それはそれでよいことでしょう。
 しかし、他方で、このような状況に、学問の死相が出ているのを見てとらないわけにはいきません。また、20世紀末から21世紀にかけての政治・経済・社会の変動に対して、このように標準化した学問研究体制が十分に対応できているとはとても言えません。「外部」から大学と大学院に寄せられる批判の多くは噴飯物ではあるのですが、そのような批判を許してしまうような死相が「内部」に出ていると考えざるをえません。

 ヴォルター・ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』は、1925年にフランクフルト大学に教授資格申請論文として提出されましたが、予備審査の段階で否定的評価および撤回勧告を受け、ベンヤミン自ら撤回したものです。現代で言えば、博士学位請求論文として提出されたが、審査を進めたなら不合格になるのは間違いないということで撤回を勧告されて、自ら引き下げたものということになります。当時の審査基準からすれば標準的水準に達しなかったと判定されたわけです(私はその判定に多少の理はあると思っています)。そこから、「歴史」と「アレゴリー」を論じた有名な一節を引いてみます(「歴史」を「学問」ないし「学問の歴史」と読みかえて下さい)。

「アレゴリーにおいては、歴史の死相(facies hippocratica〔ヒポクラテスの顔、死相の現われた顔〕)が、硬直した原風景として、見る者の目の前に横たわっているのである。歴史にはそもそもの初めから、時宜を得ないこと、痛ましいこと、失敗したことが付きまとっており、それらのことすべてに潜む歴史は、ひとつの顔貌――いや髑髏の相貌のなかに、その姿を現わすのだ。〔……〕この最も深く自然の手に堕ちた姿のなかには、人間存在そのものの自然〔本性〕のみならず、ひとつの個的人間存在の伝記的な(biographisch〔生記述的な〕)歴史性が、意味深長に、謎の問いとして現われている。これがアレゴリー的な見方の核心、歴史を世界受難史として見るバロックの現世的な歴史解釈の核心である。」(浅井健二郎訳〔一部改変〕、ちくま学芸文庫下巻、29‐30頁)

ベンヤミンは、学問の凋落、学問の廃墟、学問の髑髏を見てとっていたのです。そして、まさにそこに「問い」と「意味」を感知していたのです。
 もちろん本研究科はベンヤミンを落とすなどという馬鹿な真似はしません。むしろベンヤミンのような院生も育てたいと考えています。それにつけても、どうしても何ごとかを考えたい調べたい書きたいという思いから出発して、学問を習得しながらもその学問の死相を感知する必要があります。そのとき、学問の死相をアレゴリー的相貌と捉えて救うだけでよいのかは定かではありません。ベンヤミンの方途がよいかどうかはわからないのです。そう、何も定かではないし何も決まってはいないのです。いずれにせよ、現状の学問に死相が出ているとするなら、それは、これから大学院に進学する人にとって好機です。

2018年4月1日
立命館大学大学院
先端総合学術研究科長
小泉 義之

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