「分析哲学と芸術」研究会(2013年度)

院生代表者

  • 田邉 健太郎

教員責任者

  • 吉田 寛

第2回公開研究会

開催概要

タイトル フィクションの哲学
日時 2013年12月15日(日)14時00分~
会場 立命館大学衣笠キャンパス 創思館401・402号室
参加資格など 事前予約不要、参加費無料、学外の方も御参加いただけます

講師

河田学(京都造形芸術大学)、藤川直也(京都大学)

内容

河田学:
フィクションにおける〈語り手〉の問題は、いわゆる物語論(ナラトロー)の中心的課題の一つとして長年にわたり議論されてきた。物語論における〈語り手〉論は、分析哲学におけるフィクション論とどのような位置関係にあるのだろうか。両者を接続しようとした試みの一つが、マリー・ロール・ライアンが『可能世界・人工知能・物語理論』(Possible Worlds, Artificial Intelligence and Narrative Theory, 1991)において行った、サール批判を踏まえての〈語り手〉概念の定式化であった。本報告では、ライアンの試みがもたらした結果を確認し、そこからえられる〈語り手〉なる対象の性質を検討する。時間に余裕があれば、分析哲学側の〈語り手〉論として、『物語と語り手』(Narratives and Narrators, 2010)におけるグレゴリー・カリーの議論にも触れたい。

藤川直也:
「フィリップ・マーロウ」のようなフィクションに出てくる名前(以下、フィクション名と呼ぶ)の意味論は、少なくとも、次の二つの文が真であるということを説明できるようなものであるべきだろう。

(1) a. フィリップ・マーロウは存在しない。
b. 『リトル・シスター』によれば、フィリップ・マーロウは探偵だ。

キャラクター指示説によれば、フィクション名は、フィクションのキャラクターを指示する。キャラクター指示説が(1)の文にどんな真理条件を与えるかは、キャラクターがどのような存在者であるのかに依存する。本発表では、キャラクターの形而上学理論として、それは一種の非存在対象であるとするマイノング主義的な立場を取り上げ、それと組合わさったときに、キャラクター指示説が(1)の文の真理条件をどう説明するかを概観し、この理論のありうる問題を考察する。キャラクターに関するマイノング主義的理論としては、Parsons, T. (1980) Nonexistent Objectsのものと、Priest G. (2005) Towards Non-Beingのものを取り上げる予定である。(時間が許せば、キャラクターは人間の心的な活動が生み出す人工的な抽象的対象であるとする立場(文化的人工物説)も取り上げる。)

第1回公開研究会

開催概要

タイトル 作品からパフォーマンスへ――普遍論争と芸術作品の唯名論
日時 2013年10月20日(日)14時00分~
会場 立命館大学衣笠キャンパス 創思館406号室
参加資格など 事前予約不要、参加費無料、学外の方も御参加いただけます

講師

西條玲奈

内容

 この発表では、20世紀以降の分析形而上学における普遍論争によって洗練された哲学的概念を使い、芸術作品の存在論を提供する試みを行います。大きく二つのパートに分かれており、はじめに理論的基盤になる性質の存在論に対する代表的な三つの立場【普遍者実在論】【クラス唯名論】【トロープ唯名論】を、できるだけニュートラルな立場で概観します。(私はデイヴィッド・ルイス流のクラス唯名論の支持者なので多少の身びいきはご容赦願います。)現代の普遍論争とは、人間や美しさや白さといった性質がその担い手である個体ーーアリストテレス的に述べるなら第一実体ーーは別の種類の存在者かどうかを争っているものです。性質と芸術作品を類比的にとらえてみよう、というのがこの発表の基本的な発想です。
 なぜ性質と芸術作品が関係するのでしょうか。両者が似ているのは、通常、その事例となるものが複数存在しうるという特徴をどちらももつからです。たとえば、ろくでなしという人の性質はドストエフスキーもルソーも(おそらく)共有しているでしょう。この場合ろくでなしという性質はドストエフスキーとルソーという異なる事例をもっています。同様に、写真、音楽、映画、演劇などの芸術作品は、「同じ作品の異なるプリント、演奏、上演などなど」をもちます。便宜的に作品は複数のパフォーマンスをもつといっておきましょう。このような特徴は反復可能性と呼ばれることがあります。この反復可能性の共有が、性質の存在論と芸術作品の存在論を結びつけたくなる根拠です。
 前半で性質の存在論の道具立てを確認した後、後半部分では、いよいよ芸術作品をとらえる理論を検討します。自然と思いつくのは、芸術作品を普遍者と同一視する立場です。普遍者とは、まさに反復可能性を備えた存在者で、その事例となるものに共通の本性を与えるものと考えられています。作品とパフォーマンスの関係も、普遍者とその事例に類似しているのは、1611年にイングランドで上演された『マクベス』と、1980年に蜷川幸雄の演出で日本語で上演された『NINAGAWAマクベス』が同じ『マクベス』なのは、それぞれの上演が同一作品の事例になっているからに思えます。しかし私はここで、反復可能性を備えた芸術作品が個々のパフォーマンスとは別種の存在者であることを否定するつもりです。存在するのは、個々のパフォーマンスだけであり、それらを「同じ作品」に属せしめる固有の存在者はいないと主張します。これは普遍論争でいうところのクラス唯名論に相当します。芸術作品を実在論的にとらえるのがよいか、それとも唯名論的にアプローチするのがよいか。どちらも利点と欠点を抱えています。ここでは、唯名論的な芸術作品の理解が好ましいのはどのような場合なのかを、こうした論争の意義とともに積極的に説明したいと思います。
(講師より)

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